Koshiji Yoko

越路姉妹の越路よう子が日々思うことを綴ります。

レコードと本  

 

わたしは大変な怠け者で、常に楽をしていたいと

思っている。

そして、何かに縛られるのが大変苦手で、常に

自由でいたいと思っている。

 

車に乗っていた時代(15年くらい前)までは、

自宅から数十メートル先にあるにタバコを買い

に行くのにも車に乗っていた。

楽だからだ。

ただ、ガレージを開け閉めすることやガスを入

れることなどがめんどくさくなり自転車に乗り

換えた。

環境に配慮したりして車に乗ることをやめたわ

けじゃないのだ。めんどくさかったからだ。

 

携帯電話もそうだ。

新し物好きのわたしはスマートフォンが出た瞬間

ガラケーから乗り移ったものの設定がやたらと

めんどくさくて、人々が当たり前に知っているこ

とすらわたしは全然知らない。設定する忍耐力が

全くないのだ。

 

デジタルツールは便利だけれど、設定やその裏に

ある仕掛けやなんやかんやがかったるいのでその

作業を放棄している。

何かに支配されている感じもするし、何よりかっ

たるいのだ。

 

ただ、困ったことに、音楽に関わる仕事を生業に

しているにも関わらずCDを聴くことも激減してし

まったのだ。

これは、ケースからCDを取り出してコンポにCD

を挿入する動作がかったるくなってしまったから。

 

ここまで来ると手の施しようがないと自分でも

思う。。。

 

わたしは面倒くさがりのポンポンチキなのだ。

 

結果、どうなったかと言うと

車を捨て、自転車に乗るようになり

携帯でのメール通信を極力控え、facebook

とうに辞め、電話で会話をするようになった。

もっと言ったら会って話すようになった。

 

 

そこで、いろいろなことに気づくようになる。

 

自転車の方が、車に乗っていた時よりも多くの

景色に気づく。

スピードが遅い上、寄り道が自由にできるからだ。

わたしの家の近所では電気自転車のレンタルがあ

り、楽チンで快適で楽しい。

 

デジタルでの通信をなるべく控え、電話でもその

声色で相手の体調やニュアンスがより解像度を増

して伝わる。

また、直接会うことでいろいろな余談を聞かせて

もらい情報量というより、情報力がアップするこ

とに気づいた。

そして何かに監視されているような気配は薄まり

自由度がアップした。

 

ポンポンチキの成れの果てに前向きな発見があっ

たというわけだ。

 

そして、何よりもの発見がこれだ。

 

 

レコードを聴くのが楽しい。

レコードは一度針を落とすと簡単には曲を飛ばせ

ないので片面一通り聴くことになる。

面倒くさがりのわたしはもちろんそのまま一通り

聴くことになる。

 

ジャケットのサイズもCDよりはるかに大きいので

情報量が多く、ライナーノートなどを楽しく読むこ

とができる。

ジャケットのデザインもしかり。

そして、連続して聴くことを前提としているレコー

ドには見事な曲順が成立している。

流れるようなメリハリのついたストーリーがあるこ

とに気づく。

 

音の周波数やらややこしいことはよくわからない

けれど、ひたすら音が気持ちいい。

音疲れしないのだ。

 

わたしの怠け者パワーに、

レコードの針を落とした後の楽しさが勝った瞬間だ。

 

楽しくも心地よいのだ。

 

全国の面倒くさがりのみなさんとシェアしたい。

 

その昔、履歴書などでよく書かれていた

“レコード鑑賞” 。

 

なかなか良いものですよ★

 

 

追伸

読書も楽しい★

アルクトゥルス

 このところ空ばかり見ている。

 

宇宙のことばかり考えているからだ。

 

自分の中にある宇宙と、見上げた空の向こう側にある宇宙

その両方について考えている。

考えているというよりイメージしていると言ったほうが正確かもしれない。

 

これからの新しい時代へ向けて

この世界から苦しみや悩みや嫉妬や妬みや怨みなどの

ネガティヴなエネルギーがプラスにかわることを祈りつつ

自分ができることを探している。

 

自分ができることは自分の中にあるので、

自分を変えるためにいろいろトライしている

と言った具合だ。

 

自分の中にある宇宙へ向けて、意識の変革を始めようと思う。

そして自分の外側にある空の向こうへその波動を飛ばしたいと思っている。

 

呼吸を整え、空ばかり眺めながら

私は自分が帰るべき星を探しているのかもしれない。

 

変なこと綴りましたが

 

他にもそんな人がいるような気がしてならない。

 

 

この星にいる善良な宇宙人さんたちへ

 

 

越路よう子

秘密の夜会 編集後記

6月14日に青山月見ル君想フにて越路姉妹の秘密の夜会が開催された。

この夜会シリーズは、越路姉妹がホスト、ホステスになりご縁のあるアーティスト

をお招きし、皆さんに存分に楽しんでいただく企画だ。

 

前回竹原ピストルくんをお招きしてから2回目の夜会だった。

今回はバービーボーイズの杏子さん率いるワンショットというバンドと、

紙芝居作家飯田華子さんとの共演だった。

 

ピストルくんも杏子さんも、越路ファラオちゃんの深い関係で繋がった良縁だった。

双方とも共演を終えた今、とても素敵なご縁が繋がったと実感している。

 

今回はこの「ご縁」というものについて綴ってみたいと思う。

 

その昔、京都で「人生を変える書店」という本屋さんに入ったことがあった。

その本屋さんに置いてある本は全て真っ黒の包装紙に包まれていて、

その中身がわからない。

つまり、80年代に流行ったビニ本(中身がわからないビニールに包まれたエロ本)

と同じやり方だ。

 

ただその積み重ねられた本の脇にこの本を読んだ人々の感想が書かれている。

中身はわからないけれど、どんなふうに面白いのかということを読者の

感想に委ねている。

面白い本屋だ。

 

そして、「人生を変える書店」というコピーもなかなか良い。

確かに私たちの人生は出会った書物によって少なからず影響を受けている。

わたしの場合、ドラえもんや、別冊少女マーガレットなどの漫画からも多大な

影響を受けているのだから、それはもう書物からの影響など受けまくりなのだ。

 

人によって違いはあると思うが、人間は出会った本によって人生が変わって

ゆくと言ってもそれは過言ではないと思う。

 

人は、出会った本によって人生が変わる。

 

そして、人は出会った人によって人生が変わるとも言える。

人生なんてそんなものなのかもしれない。

 

 

出会った人がご縁のある人ならば、その縁は良い縁であってほしい。

 

 

心にノイズが多かったり、よこしまな視点で考えたり、打算的な考え方でつながる

関係は良縁とは言わず、ご縁とも言わない。

 

それは関係でしかない。

 

ご縁とはもっと違った意味がある。

 

 

昔の和風建築には必ずあった縁側(えんがわ)。

 

これは、家の中の世界と、外(庭)の自然界との境目のことを指す。

外でもなく内でもない縁側。

つまり縁側はグレーゾーンに位置する境界線のようなスペースだったのだ。

それは、内の世界と、外の世界を繋ぐ縁(ふち)そのものだ。

 

今回の場合、その縁側にファラオちゃんが腰掛け、親愛なる友人を越路家に

招いてくれたのだ。

飯田華子ちゃんの場合はわたしが縁側から手を招いてお誘いした。

 

越路家の家族たちはその客人に大いに喜び、楽しい時間を共にした。

 

そして私たちはその大切な客人とやがて友人になり、新たな世界を教えて

もらったのだ。

 

あの会場に来てくれたお客さんも同じ時間の中で同じ体験をしてくれたに違いない。

 

 

人と人とのご縁は、いろいろな要素や時間が積み重なってつながる。

それぞれのいろいろな経験や体験を経て、思いもよらぬ出会いにつながってゆく。

そしてそれが良縁ならば、その場の空気はキラキラと輝き、明るい空気に包まれながら

次の物語りへとつながってゆく。

 

今回の夜会はそんなことを感じさせてくれる貴重な一夜だった。

 

 

キラキラしてたな〜。

 

 

そして杏子さんの家でのたこ焼きパーティへと続く。

 

良縁に感謝★

 

 

越路よう子

越路3姉妹東北の旅・編集後記

越路3姉妹東北の旅・編集後記

 

5月の徳島公演に続き、6月は東北ツアーから始まった。

 

山形、福島、仙台と3箇所での演奏旅行だった。

どの公演もそれぞれ制作者と出演者の「絆」のようなものを感じる楽しい旅だった。

 

徳島の拝宮公演からも多くのことを教えていただいたが、

今回の旅も同じように多くのことを教えていただいた。

 

 

冒頭に書いた「絆」について。

 

 

 

音楽の歴史には、とてつもなく長い歴史がある。

神話の世界に出てくるアメノウズメまで遡るともう

何年前の話なのか正確にはわからない。

 

ただ、音楽の役割ははっきりしていた。

 

音楽とはそもそも、祈りや願いを天に届けることが役割だった。

それが長い時を経て、いつしかショーのようなものになりお金の関係ができてくる。

 

最初はそのお金もお賽銭のような感覚だった。

祝い芸などで、芸人にお祓いをしてもらう代わりに支払うお金だ。

河原乞食などと呼ばれ、芸人は差別も同時に受ける。

これが歌舞伎の始まりであり、別の問題に膨らんでいった差別の始まりでもあった。

 

さらに時が経つと芸人(音楽家を含む)は投げ銭やおひねりではなく、

約束されたギャラ(出演料)を手に入れるようになる。

 

そしてさらに時が経過すると、ショー以外の商品が生まれる。

その世界を再生するレコードや、カセットテープなどだ。

それが大きなお金に換わることがわかると、人々は音楽だけでなく

様々なグッズを作るようになる。

これがレコード会社の始まり。

 

また、そのショーは興行などと呼ばれヤクザ世界の人々がうなるようなお金を

元に仕切り始める。これがプロモーターの始まりだ。

 

新聞やテレビやラジオといったものが出て来た時には、音楽の持つ影響力は

計り知れないほどの大きなものになった。

その力は国境さえも越えていった。

 

やがて音楽はその商品を売るために発信される「効果」としての役割も

担うようになる。 CM音楽などはそれだけのために出来たジャンルだ。

 

こうして芸能や音楽は時代によって役割を変えてゆく。

 

今の時代はさらに加速し、デジタルツールがメディアの役割も兼ね備え

全てがその世界で完結するようになる。

音楽を聴く機会も、発信する機会も、決済する機会も、、、、、

 

それはそれで良いところもいっぱいある。

今まで届くことのなかったところまで様々なものが届くのだから。

 

 

ただわたしはちょっと立ち止まって考えたい。

 

 

本当にこれでいいのか?

 

音楽のそもそもの始まりと、今の音楽の役割に開きがありすぎるんじゃないかと。

 

 

音楽は人々の苦しみや悲しみに寄り添ったり、人々が抱える日頃の苦しみを解放する

爆発力だったり、天につながるある種の感覚を共有することだったり、祈りだったり

願いだったりするのが大切な役割だった。

 

こうした大切な役割を動機としていなければ音楽や音楽家は、ただの商品になってしまう。その音楽に集まる人々はその商品に集まる単なる商人になってしまう。

天につながる発想とはかけ離れ、お金に群がる人と商品という図式になってしまう。

そんな音楽や人なんて、本当に人々のために役に立っているのかな?

と思うのだ。

 

今の音楽の広がり方は希望を持てる側面はいっぱいあるし、これから先も

チャンスや可能性は広がってゆくことを前提に。

 

矛盾することだらけかもしれないが、わたしは何だか音楽業界そのものの体質が

気持ち悪い。(そうでは無い人もたくさん知っている)

向かっている方向や軸みたいなものが、人の気持ちやシックスセンス

かけ離れているような気がした時に気持ち悪くなるのだ。

 

わたしのような、それこそ河原乞食のような者が偉そうなことは何も言えないが

少なくとも先日の徳島公演と東北ツアーで出会った人々や音楽家の方々は

音楽の役割を魂のレベルから持っている人々ばかりだった。

そしてそれぞれのイベント制作者、裏方に回った人々と出演者が「友情」や

「絆」のようなものでつながっていた。

 

そして何より、そこに集まってくれたお客さんに寄り添うことができていた。

お客さんと制作者と出演者と天が手を繋いでいる感覚まで手応えを感じた公演だった。

 

わたしはこうしたことを続けてゆきたい。

音楽とはそうあってほしいと願う。(少なくともわたしの中では)

たとえ小さなことであっても、こうした感性の音楽家と残りの人生共に音を出して

ゆきたい。

 

この東北ツアーは、腹筋が筋肉痛になる程毎晩笑い続け、時には涙を流し、踊り、歌う

全てのエネルギーが明るくポジティヴな時間に包まれていた。

 

関わってくれた全ての方々に、葉山館の皆さん、山形ワインバルスタッフの方々、

かみのやま観光協会のみんな、音茶屋のみんな、福島飯坂温泉の方々、旅館青葉の皆さん、仙台ラブミー牧場の皆さん、白崎映美と白ばらボーイズの皆さん、越路和子バンドのみんな、司会のまいちゃん、晴豆のかな、越路和子、越路ファラオ、全てのお客さんに心から感謝を込めて。

 

わたしは多くのことを教えていただきました。

 

音楽は尊いものだと。

 

誠にありがとうございました。

 

 

 

 

この世界の全ての音楽家へ愛を込めて。      越路よう子

「小さい」のビックバン

拝宮農村舞台公演 編集後記

 

2019年5月26日に、徳島県那賀町と言う限界集落にある神社でのお祭りのこと。

 

わたしは今から約3年前にこの那賀町に移住した。

移住といっても半分は横浜、半分は那賀町といった2拠点生活というパターンでの暮らしだ。

 

わたしが移住した訳にはいろいろな理由があった。

 

 

311のかの大震災の直後、日本列島全体がノイローゼになったかのような異常な空気感に包まれたそのさ中、わたしは呆然と立ち尽していた。

 

今自分にできることを必死に探し、もがき続けるのだがその度に自分の無力さを思い知らされるだけのやりきれない虚しい日々がしばらく続いた。

 

多くの人がそうだったように、わたしも同じように混沌とした世界の中で自分の中にある善と悪について、政治のあり方や、原発の問題について、利権の問題や生と死について、ありとあらゆる問題が土石流のように襲いかかり、心と頭の中をかき乱していたような気がする。

 

しばらく時間が経過すると、問題は被災者が抱える問題よりも「原発」の問題がクローズアップされるようになる。

 

国会前ではデモが何度も繰り返され、文化人たちはそれぞれの考えをメディアを通して発信するようになる。

 

さらに時間が経過すると、私たちは徐々に日常を取り戻していく。

その時間は加速してゆき、一見元の暮らしに戻ったかのように見えた。

 

 

ただし、考え方だけは大きく変わっていた。

 

 

わたしは自分の無力さを目の当たりにしてから、そもそもの自分の役割について考えるようになった。

 

 

わたしは歌を歌う。

その歌で何をしたいのか?という問題に突き当たる。

この失敗だらけの人生の先に、一体何がしたいのか?という問題に。

 

わたしは歌で誰かのココロに寄り添うことができれば本望だということに行き着く。

ではその歌は何か?

 

それはラブソングだった。

 

何かを批判したり、自分の評価を求めることなどではなく、誰かに寄り添い、希望のヒカリを絶やすことをしない「愛」のようなものを発信するラブソングだった。

 

それしか歌う気がしない。

 

それで少しでも役に立つことがあるのなら、残された人生はそれに時間を費やしたいと考えるようになった。

 

 

 

問題は足元にいっぱいある。

悲しみや苦しみも足元にいっぱいある。

本当の喜びや幸せも足元にいっぱいある。

 

私たちは大きなものを求め、大きなものを信じ、大きなものに向かうことを成長だと信じてきたのかもしれない。

 

だが、それは間違いだった。

 

小さなものの積み重ねが大きなものならば、小さなものに血が通っていなかったり、しっかりとした骨組みがなければ、それはただ単に見た目が大きいということだけでハリボテでしかないことを知る。

それは決して豊かな世界には繋がらないのだと確信したのだ。

 

それだけではない。

 

小さなものの中に、無限に広がる宇宙があるのだということもこの経験を通して知ることになる。

 

小さなものこそ宇宙なのだと。

 

小さなものこそ巨大で無限なのだと。

 

わたしの場合はそう考えるようになった。

 

 

自分の愚かさや、未熟さ、弱さや汚さはぬぐいようの無い事実として痛いほど自分ではわかっているつもりだが相変わらずわたしは失敗を繰り返している。

 

偉そうなことなど何も言えないのだ。

 

それを承知でわたしは思う。

 

わたしはラブソングを歌いたい。

 

ラブソングを一緒に奏でることのできる人がいるならば、一緒にその世界を描きたい。

 

一人より二人でその思いを発光させたい。

 

 

そんな思いが実を結んだ1日があった。

 

 

それが5月26日に迎えた農村舞台公演だった。

 

 

村のおじいちゃんおばあちゃん、役場の人たちに支えられ成立したこのお祭りには

笑い声が絶えず、喜びの涙が流れ、愛と希望が溢れかえっていた。

 

そこに結実するには長い時間が必要だった。

色々な小さな要素が重なり合って、色々な考えや色々な気持ちが織り重なって、化学反応を起こして、ミックスした末の姿だった。

 

Kaolyさん率いる和太鼓チームのGOCOO、そしてオーボエ奏者のtomocaさん、ギタリストの阿部さん、写真家のブンさん、越路3姉妹、舞台を装飾してくれた華道家の平間磨理夫さん、人形浄瑠璃の清流座の皆さん、音響の川原さん、絵描きの蘭子、地元の方々、集まってくれたお客さん、その全てが宇宙と自然と神様と手を繋いでいた気がした。

 

 

わたしは確かな手応えを感じた。

 

これで良かったのだという感触を身体中で感じた。

 

それは小さな空間で起きた出来事だった。

 

そしてそれは、無限の可能性を感じる出来事でもあった。

 

 

わたしはこのお祭りを通してこの場にいたすべての人々と、わたしの人生の中に登場してくれた全ての人、仲間に心からお礼を申し上げたい気持ちでいっぱいだ。

 

わたしの中にある「悪」を少しでも「善」に変えることでこの世界から少しでも「悪」が減るのならば、わたしはそれについてその都度立ち止まって考えたい。

 

わたしの中にあるちっぽけな「愛」が少しでも誰かに寄り添うことができるのであればわたしは惜しむことなく全力で歌いたい。

 

 

無力で無知なわたしごときが生かされているのだから。

 

 

 

                          深謝 越路よう子

 

 

 

 

 

追伸

ありがとう越路姉妹。あんたたちがいなけりゃあたしゃ何にもできない。

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農村舞台2

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農村舞台

 

白崎映美とキャバレー白ばら

白崎映美とは、言わずと知れた上々颱風のメインヴォーカリストである。

上々颱風は日本の音楽史に残るバンド。

JALの沖縄キャンペーンソングの大ヒットから始まり、ジブリ映画平成狸合戦ぽんぽこサウンドトラックや、夜逃げ屋本舗の主題歌などを手がけ、日本国内はもとより海外公演も多数、おまけにシンディーローパーのアルバムに2曲参加するなどその活動はワールドワイドでユニークで唯一無二の存在だった。

 

詳しくは→http://www.shangshang.jp/shang.html

 

そんな白崎映美さんとなぜか親しくさせていただいている。

 

私が映美さんと出会ったのはずいぶん昔のことだが、サックス奏者の梅津和時さんからの紹介だった気がする。

 

その頃私は山形県日本海側にある庄内地方というエリアにはまっていた。出羽三山と呼ばれる神聖な山々や、鳥海山という雄大な山、そして最上川庄内平野、美しい夕陽に北前船黒川能、黒森歌舞伎、死ぬほど美味しいごはん(ちなみに空港名は“庄内おいしい空港”)、酒田ラーメン、、、とにかく自然も文化も歴史も何もかもが私にとっては魅力そのものだった。これは今でも変わらない。

 

とにかく庄内に対する私の熱量は相当な熱量なので、方々で庄内の魅力について語り、何度もこの地を訪れこの地の豊潤な魅力を思いっきり吸い込んできたのだ。

 

白崎映美さんが庄内は酒田の出身だったことは、出会って間もなくして知ることになる。

その時の驚きは大きなものだった。映美さんは沖縄出身だと思い込んでいたのだ。

なんの根拠もなく、CMのイメージだけでそう思っていた。

 

映美さんが酒田出身だと知った時は嬉しかった。 ひたすら嬉しかった。

それをきっかけに急速に私は映美さんと距離が縮まる。

簡単にいうとこんないきさつで映美さんと私の関係は始まる。

 

その後は色々なイベントでご一緒することになり、映美さん主催のイベントにも何度も呼んでいただくこととなった。

そんな活動の中の一つに「白ばらプロジェクト」というものがある。

上々颱風の活動が休止後、映美さんは二つのプロジェクトを始める。

 

2つ共、かの震災の後に立ち上げた白崎映美の渾身のプロジェクトだ。

 

一つは東北6県ろ〜るショー!!

かつて”まづろわぬ民”(従順でない、迎合しない、という意)と呼ばれた東北人スピリッツを胸に抱き、東北を想う濃厚な音楽家、役者、美術家、東北伝統芸能に、小説家や神様や妖怪も引き連れて「東北さいい事いっぺ来い来い来〜い!」と歌う東北6県とロックンロールを文字ったスーパーエンターテイメントバンドだ。

 

もう一つは映美さんの故郷酒田にあった「白ばら」というキャバレーを復興させようと立ち上げた白崎映美と白ばらボーイズ。

 

今回はこの白ばらボーイズにつていて語りたい。

 

このバンドは、3人の役者と4人のミュージシャン、そして白崎映美さんの8人で構成される。

 

役者さんは元自由劇場の個性あふれる愉快なみなさんだ。

自由劇場とは吉田日出子さんが立ち上げた伝説的なアングラ劇団。

ここからは笹野高史さんや余貴美子さん、斉藤暁さん、そして小日向文さんなど錚々たる役者を輩出している。だが、なぜこうした劇団の役者さんが白ばらボーイズにミュージシャンとして入っているかというとこうした理由があった。

この劇団の代表作である上海バンスキングで役者の皆さんが生演奏を強いられ、猛特訓の結果演奏が上手くなっちゃたという、雑に説明すればそんな経緯があったのだ。

彼らは演奏はもとよりステージ上での大道芸やマジックなどその芸の幅は音楽家がなせる技ではなくとにかく質が高くて面白い。白ばらキャバレーショーにはもってこいのキャスティングだったのだ。(Vn.片岡正二郎、Tp.内田伸一郎、Sax.小西康久)

 

そしてそれを支えるミュージシャンは、ニューオリンズ系のピアニストで星野源さんやアンサリーさんなどのサポートをする小林創さん、そして沢田研二さんなど数多くのアーティストをサポートするドラマーの熊谷太輔さん、そして一流ジャズベーシストの田野重松さん、トロンボーン奏者の花島英三郎さんといった強者が揃っている。(こんなバンドなかなか無いよな、、、、。)

 

そのどれもこれもが白崎映美さんの圧倒的な人脈とその人望で集まっている。

 

補足で説明すると映美さんは上々颱風の前に自由劇場の後身?である東京乾電池に一時期在籍する。柄本明主宰のこの劇団には高田純次ベンガル綾田俊樹などが在籍する超人気劇団だったのだが映美さんはあっという間にこの劇団を辞めその後雑誌のメンバー募集を見て応募して入ったのが上々颱風(正確にはその前身のひまわりシスターズ)だったのだ。

そんな縁もあって白崎映美さんの人脈は曼荼羅図のように複雑に多岐に交差している。

 

 

話しを白ばらボーイズに戻そう。

 

そんなステキな白ばらボーイズのイベントに何度か越路よう子として呼んでいただくことが続いた。私の庄内愛がここでリンクしたのだ。

映美さんの考えていること、映美さんの思い、映美さんの表現、そんなものがこの取り組みの中で私の中にじわじわっと染み込んでいく。気がつくと私は準々レギュラーくらいの存在になっていた。私にとっては楽しくも幸せなことだった。

 

そんな活動の中で、ふと気づく。

白ばらボーイズ、音源が無いなと。

この魅力をみなさんに伝えるにはライヴだけでは限界がある。

音源が無いとPVも作れない、、、

 

そうだ!レコーディングしよう!

と、どこかの鉄道会社のコピーのようなノリで私は映美さんに宣言した。

それが今回のレコーディングへの前段のお話しなのでした。

 

今回収録する曲はエディットピアフ によって広められた「群衆」という曲を映美さんが酒田弁で歌う。そしてカップリング曲は上々颱風時代の愉快で陽気なピンクのチャリンコというヴィンテージブルースナンバー。どちらも明るく楽しい気持ちになるステキな楽曲だ。

ぜひ楽しんでお聞きいただきたい。

 

その収録が先日終わった。(笑い声が絶えない現場だった。)

あとはミックスとマスタリング。

みなさんの元にお届けできるのは夏頃だろうか。

8月末には代官山晴れたら空に豆まいてにてレコ発パーティーも予定されている。

PV作ったりリミックス盤作ったり色々始まる。

この辺りははっきりと情報が確定したら改めてお知らせしたと思う。

 

白ばらボーイズ。

元気と笑いと愛をたっぷり詰め込んだデビューシングル??

ぜひお楽しみに★

 

 

愛を込めて。

 

 

越路よう子

 

こころの時代  

 

ついこの前、映画監督の長岡参(ナガオカマイル)くんに漆芸修復師 清川 廣樹さんを紹介してもらった。マイルくんが清川さんのドキュメントを撮影すると言う話から繋がったお話だ。清川 廣樹さんは金継ぎと呼ばれる伝統的な修復の技術をマスターした国宝級の職人。

 

※金継ぎ(きんつぎ)は、割れや欠け、ヒビなどの陶磁器の破損部分を漆によって接着し、金などの金属粉で装飾して仕上げる修復技法で、金繕い(きんつくろい)とも言う。

By wiki

 

 

清川さんのお話しはどれもこれも興味深いものばかりだったが、今回はその金継ぎに欠かすことのできない漆の世界について綴ろうと思う。

 

 

漆の詐取の仕方は、漆の木に傷をつけその傷を治そうとして出てくる樹液を採取する。これは人間に例えると、体を切りつけられその傷を治すために血が流れ、血液中のリンパ液が傷口を固めるために流れ出てくることと同じなのだそうだ。そう例えられると、漆とはなんともありがたいもので貴重なものだということがわかる。

 

日本の採取の仕方と海外の採取の仕方には大きな違いがある。

海外の場合、2ヶ月間漆の木を傷つけ、再生するとまた翌年同じように傷を入れ、それを永遠と続けてゆく。これを養生掻きと呼ぶ。

 

それに比べ日本の場合は、4ヶ月近くの月日をかけ一気にひとしずくも残さず全て絞りとる、殺し掻きと呼ばれる方法をとる。つまり、全ての樹液を搾り取り最後は伐採し、切り倒す。それが殺し掻きというわけだ。

 

漆の木を産業の資材と考える養生掻きに比べ、漆の木を生き物として考える殺し掻きには考え方の違いがある。どちらが正しいかどうかなどということはあまり考えたくない。そんなことよりもその考え方の違いに興味が湧く。

 

殺し掻きというショッキングなネーミングの反面、殺して命をいただくという考え方から搾り取られた漆は貴重で、ありがたく大変大切に扱われる。(1本の木から採れる漆はわずか200cc)その上、一見殺されたかのように思う伐採後の切り株からは、新しい芽(ひこばえ)が出てより強い漆の木として再生するのだ。

 

養生掻きと呼ばれる手法は1本の木を永遠に傷つけ続けるので、その木は生命力を徐々に弱らせてゆく。長く保つことはできるがその木の生命力は弱々しく元気が無くなってゆく。

 

漆の木を育て、漆を採取できるようになるのは、10年もの歳月がかかるという。

その間には定期的な下草刈りやツル切り、肥料の散布、獣害への対策など、そ作業は大変だ。漆が採れるまでかなりの時間と苦労があるのだ。

その木をなるべく長く保たせ利用する養生掻きの考え方は一つの考え方だ。

 

ただ、殺し掻きの考え方の方がわたしは腑に落ちる。

効率や生産性だけではなく、その奥にある命の意味のようなものを感じるからだ。

神や命への畏怖と言うべきか、、、、、。

 

これからの時代、こうした先人の知恵を私たち日本人は見つめ直す時が来たのかもしれない。

そんなことを清川さんとのお話の中で気付き、教えていただいた気がした。

 

 

 

心の時代。 

 

 

 

                   

                                      越路よう子